お知らせ

【新聞掲載】新潟日報 企業ヒストリー1話 幕末の漁師 礎を築く

お知らせ メディア取材 TAKEBOKO社長の「一期一会」ブログ

時代とともに にいがた企業ヒストリー 第1話

湊町と歩む 竹徳かまぼこ

幕末の漁師 礎を築く

魚介流通の中心地で開業

本県はかまぼこ類の生産量で日本一を誇る。きっかけとなった「リテーナ成形」技術を考案したのが、竹徳かまぼこ(新潟市中央区)だ。特許技術を業界に無償で提供し、かまぼこの量産化に貢献。自らは創業の地に立つ小さな工場を守り、おいしさにこだわったかまぼこ作りを続けてきた。近年は地元の食材を使った商品開発で異彩を放つ。その歩みをたどると「湊町」新潟の歴史が見えてくる。

竹徳かまぼこの源流は、江戸時代末期の1845年に生まれ、新潟町の漁師だったと伝わる竹中酉蔵氏だ。新潟市歴史博物館の安宅俊介学芸員によると、当時の新潟町は現在の新潟島の一角を指し、人口2万5千人前後。毎年数千隻の廻船が寄港する日本海側有数の港湾都市で、通りと堀が交差し、屋敷が立ち並んでいた。

現在の新潟市中央区本町通11番町は「魚町」と呼ばれ、鮮魚問屋が立ち並んでいた。浜に揚がったタイやイワシ、ヤツメ簡で取った川魚などが売られた。安宅氏は「魚町の周囲には漁師が多く住んでいた。

酉蔵氏もそうした一人だったのかもしれない」と推測する。

酉蔵氏が漁に出ると、地蔵やウミガメが網にかかり、地元の寺社に奉納したとの逸話が残る。竹徳かまぼこの竹中広樹社長は「魚でないものが取れたことからすると、浜漁師にはあまり向いてなかったのかもしれない。だから違う仕事に挑戦できたのではないか」と想像を巡らせる。

県蒲鉾水産加工業協同組合が1976年にまとめた組合沿革史には、「新潟市の蒲鉾の起源は明らかでない」と記されているが、数少ない手掛たかりとして酉蔵氏に言及した部分がある。安政年間に12歳だった酉蔵氏がかまぼこ屋に「弟子入りして修業した」という。当時のかまぼこは砂糖をたっぷり加えた甘い製品で、祝い事などに使われた。主原料は今と同じスケトウダラだが、海が荒れて佐渡方面から原糾が届かない時はナマズなどを使うこともあった、と記されている。

明治時代に酉蔵氏は魚を売って暮らした後、竹中蒲鉾店を開業した。1896年の新潟市商業家明細全図には、「カマボコ竹中」との記載がある。通りを挟んで向かいが魚町。

鮮魚問屋の店先でさかんに競りが行われた魚介流通の中心地だった。かまぼこ店では、天井に届くほどの巨大なすりこぎ棒を使い、石臼で魚をすりつぶしたと伝わる。

明治、大正時代の新潟港は、樺太方面でサケやマスを取る北洋漁業の基地として栄えた。

花街も盛況で、1915年に新潟新聞が行った美人投票では、トップの芸妓が10万票余りを集めた。そうしたにぎわいと軌を一にして、竹中蒲鉾店も料理屋などへ販路を伸ばしていったとみられる。

竹徳かまぼこは、30年ごろに竹中蒲鉾店からのれん分けして生まれた。創業者の竹中徳四郎氏は、酉蔵氏の親族で、竹中蒲鉾店で腕を磨いた後に独立した。当初は同じ店名だったが、取引先には紛らわしかったため、徳四郎氏のあだ取って「竹徳」とした。

やがて日本は日中戦争、太平洋戦争に突入した。「戦争中は原料も手に入らないから、浜で揚がった雑魚を漁師に分けてもらってあずま揚げ(さつま揚げ)を作った。どこから頼まれたのか(ボルトにはめる)ナット磨きもしたようだ」。徳四郎氏の孫の妻に当たる竹中則子会長は、徳四郎氏から聞いた話を

思い起こす。

徳四郎氏の長男は若くして病死し、次男の繁氏は終戦時に出征先からソ連に抑留された。「北方で終戦を迎え、日本に帰るつもりで船に乗ったが、知らないうちに連れて行かれた。ただ、ボイラーをたく係などをしたから、割と寒くなくて助かった」と、繁氏の次男良明氏は聞いている。辛くも帰国した繁氏は後に2代目の社長に就く。

2021年4月5日 新潟日報